―――ある日の昼下がりのお話。 以前から、気になっていたのだ。ある店のテラス席に、黒猫が佇んでいる風景。 けれど猫とは言い難い、その風貌に――つい、目が行く。 通りすがりに見つめていると、そのうち向こうもあたしに気づいたのか、 「――…あ……」 通りがかる度に、さっとその身を隠すように消えてしまうようになった。 正確には、店の中へと。 …何度かそんなことがあって、結局今日も、あたしは店の前までやってきてしまったのだ。 珍しく、店の扉が半開きになっていて――中で何かしているのだろうか。 「…うん? こんな判りづらいところに……これは、店名?」 扉と、その横の―木で出来た看板らしき立体物に、文字が掘られていた。 ここまで来て、あたしは初めて店の名前を知ることとなる。 「きっ…さ……ガラク、タン?」 読み取った文字を繋げるとそうなる。看板の文字を読んでから、再び扉へと視線を向けた。 ――清掃中の札などは掛かっていない。 (入ってみるか、入らないでいるべきか………) 店の前でうろうろしていた、その時だった。 「よーぅ、お嬢ちゃん、ヒトリかい?」 いつのまにか居たのか、どこから見ていたのか。近くの曲がり角から、男の人が3人現れた。 ……なんでよりによってあたしなんだ! まるで最初から狙っていたかの様に近づいてきて― あっという間にあたしを前後に囲む。 「カーノジョッ。一緒にお茶しよーよ、ねぇ」 「そうそう。すぐそこに喫茶店もあるし、ねぇ。なんか不気味だケド」 言いながら男の一人がぐい、とあたしの肩を抱き――そのまま手を下へ降ろす。 「―――っ、!」 身体が動かなくなる。まるで、満員電車で知らない人にいきなり身体をまさぐられたあの時みたいに、 頭が真っ白になって、何も考えられなく… 「嬢さん、可愛いから、喫茶店なんかじゃ俺、我慢できねーかもねぇ」 「…やっ、    やだ、やめてくださ…―――!」 後ろに居た、別の男が尻を撫で回しながら言ったところで、ようやく我に返って、あたしは声を上げる。 「やだ、だって。どうする?」 「じゃあホテルでいーじゃん。喫茶店より楽しいよ、」 男達が口々に何かを言い出したところで、堪らず――あたしはむりやりにでも逃げだそうと、絡みついた手を振り払う。 「…ッ。逃げんなよこのクソッ」 最初に話しかけてきた…軽そうな顔をした男が、あたしの手首を掴もうとしたそのとき、 『べちゃ。』 濡れた何かが張り付く音。―――その場の時間が止まる。 男の顔に、濡れ雑巾が張り付いていた。 「  ―…あまり騒ぐと営業妨害だからね? 通報するよ。」 喫茶店の扉口前に誰か―多分、男の人―が、半開きになった扉から、背を向ける様に立っていた。 今だ、と思ったあたしは、この場を離れようとしたのも忘れて、慌てて彼の後ろへと逃げ込んだ。 「すみません」、と小さく言うのだけは忘れない。そっと後ろから前を覗き込む。 …どうやら、先ほどの濡れ雑巾らしきものは、ここから放たれたらしい(おそらく、彼が投げたのだろう)。 「店の前でナンパかい?」 俺ならもっと上手くやるけどねぇ、と小さく呟いたのをあたしは聞き逃さなかった……少し脱力する。 けれど助けてくれた事に代わりはないのだ。うーん、どうしよう? 「ウチの前でナンパだなんて、全くいい度胸だなぁ。 …でも、やめておいた方がいいな。彼女は嫌がってたじゃないか、遠目に見たってね」 いきなり雑巾を投げつけられた男達は、彼の言葉をぽかんとした顔で聞いていたが、数秒の無言の後、揃って笑い出した。 「あっははは、ニーチャン、そりゃあ誤解さ」 「そうそう、そこの子も、嫌がってるんじゃなくて…俺たちみたいなデカいの3人に寄られたからビックリしちゃっただけなのさ」 「喫茶店よりもっと楽しいトコへ行こうか、って話になっただけだしな」 「なっ……ち、違いますッ!」 男達の言葉に、流石のあたしも思わず声を荒げて反論した。この人達、嘘吐いてる! あまりにもあんまりな口調に、軽く目眩がした。ここでこの場を離れる訳にだけは…いかない。 このままだと、追いかけられて…さっきよりも、もっと酷いことに合うかも…しれない…。 ――すると、それまで真面目な物言いだった、彼の様子が一転した。 「ふぅん」 ちらり、と彼はこちらに顔ごと向けて、あたしを一瞥する。…その目は、…いや。 彼の唇が僅かに動いた。……ま、か、せ、て、…? その言葉の意味を理解するよりも早く、彼は男達の方に向き直る。 「どれも最もらしく聞こえないねえ。まっ、この辺で楽しい所なんて山ほどあるしね、 うちに興味があるのはこの女の子だけみたいだし、お帰り願おうかな」 そう言って、ニッコリ笑ったようだった。 瞬間、男達の表情が険しくなる。 「…このヤロウ! 俺たちは客だぞ、その子が入るなら俺たちも行くに決まって…」 しゅるり、と足元で小さく音がした気がした。反射的に音のした方に視線をやると、……えっ? 黒くて小さな、マスコットの様な生き物が。 喫茶店の中から、黒い…マスコットの様なモノが、手の様になった部分に、太くて水色の、コードの様なモノを携えていた。 あたしの視線に気付いた様だったが、それすらもどうでもいい、といった風にコードの先を床に下ろすと、 何事も無かったかの様に喫茶店の中へと戻っていった。 「アンタたちは、入店お断りだよっ!」 彼が声を上げるやいなや、サッとしゃがみ、手探りで床のコードを掴んだ――その時、 やっとそれがホースであることにあたしは気付いたのだった。 「喫茶店だろうとホテルだろうと、騒がれると困るのは何処だって同じだからね!」 『ばしゃぁああ―!』 握られたホースの先が彼らに向けられたのと同時に、先端から液体が迸る。恐らく水だろう、 彼に掴みかからんと飛び出した男達は、勢いよく水を浴びせかけられることとなったのであった。 「冷てェ!」 「クソッ……てめえ、覚えてろよ!」 あまりにもありきたりな捨て台詞を残して、3人の男達は去っていった。 ……その姿が見えなくなるまで、二人で見つめていたところで。 「嫌な思いをさせてしまってごめんね」と、申し訳なさそうに謝られた。 「いえ、そんな……あ、あの、すみません…本当に、ありがとうございました…助かりました、本当にっ」 こちらこそ、とあたしは慌てて頭を下げる。そもそも発端はと言えば、あたしがこのお店を気に掛けていたからだ。 「またアイツらが来たら困るし、入っていくかい」 「えっ、あのっ、掃除中だったんじゃないんですか?」 中に入る様誘われて、思わず扉と男を交互に見やる。 「や、お客さん居なくて、暇してたんだよ。どうぞどうぞ、入って」 彼はにこりと、先ほどよりもやわらかく微笑んで、誘導する様に扉を開いた。 (喫茶店、かぁ……) 安心したのと同時に、ずっと気になっていた― 初めて入るお店に、心が踊り出し始める。何だか、ドキドキしていた。 さっきの黒いマスコットの事も、気になるし…。 足を一歩踏み出し、中へと入る。数歩行くだけで、小綺麗な空間が広がった。 ふと、カウンターの方から視線を感じたような気がして、そちらを見ると、そこには先ほどの黒い―― 「あっ……」 よく見ると、あれは…猫だ。いつも、テラス席で見かけている――正確に言えば、猫のように見える…生き物? 「猫だよ、あれは」 後ろからさっきの男が言う。 猫のような生き物は男をじっと見てから、面倒くさそうに。 「オーナーをあれ呼ばわりとは、いい度胸ね」 ははは、と男は気まずそうに笑った後、あたしを日当たりのいい席へと案内してくれた。 簡素な作りの、樹のテーブルに、樹の椅子。けれど座り心地は悪くない。 テーブルには紙入れを兼ねた小さなメニュー以外に、特に何も置かれていなかった。 「さて、気を取りなおして」 男は腰に手を当てると、遼子の方に向き直った。 「初めまして、お嬢さん。俺はここの店長、雅楽だ。ガラクって呼んでくれ。 向かいのカウンターに居るのは、オーナーのタンタン」 そこで一息ついてから、ガラクさんは微笑んで…。 「ようこそ、ガラクタンへ!」